ポストする July 9, 2016


遺品回収 入間基地

>>10 味方勢力範囲内なら不時着の可能性もあるけど、日本軍は 搭乗員が捕虜になる可能性や機体が鹵獲されて敵の手に渡る ことを恐れて、被弾して帰還の見込みがないときには自爆する ように搭乗員に命じていたから墜落地点から見ても生還の 可能性は低そう..

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                             (硫43師団野戦貨物廠壕)今朝は抜けるような青空です。隣家の延長線に太陽があり、家々のシルエットや朝日が当たっている家はきらきらと光って綺麗です。昨日は家の中でも寒さを感じ、書斎でもストーブをつけました。娘が妻の誕生日の前祝いをするということで、食事に行くことにした。数百メートルの距離だが、どうも風邪をひきそうな気配がしたので車で行くことにしたら、「軟弱者」扱いにされてしまった。寒さが気になる今日この頃です。今日の写真は「師団貨物廠壕」です。この碑には複数記されています。(左)師団通信隊壕「第109師団通信隊壕(この奥100米)」島内の有線通信は艦砲射撃で寸断され、小型無線は敵の電波妨害でしばしば通信不能になり、通信網の確保に奮闘した。米軍の上陸後は、第一線部隊の情報及び指令の伝令に活躍した。3月に入り米軍が北地区に接近するや挺身斬込隊にも参加し、3月9日までに大本営通信担当の土田英司少尉以下十数名が戦死し、3月15日頃までに中隊の兵力は半減し、通信機も多くは使用不能となった。3月17日、大本営に対し最後の訣別電報を送り、通信機を破壊して本土との通信を絶った。大本営はこの日を硫黄島玉砕の日とした。3月17日夜、師団の出撃に際しては、川合昌一軍曹の1個分隊5名を残して司令部の存在を誤認させるために偽電波を発信させた。森田隊長以下の残存者は師団出撃に参加し、3月25日夜半父島の派遣司令部(堀江芳孝少佐参謀)に「師団長以下敢闘中高石大佐」との最後の電報を発して斬込隊として出撃玉砕した。 指揮官 森田広吉中尉 総員  64名 戦史  59名 生還   5名 出身地 全国(右)独歩14大隊戦闘指揮所「独立歩兵第314大隊戦闘指揮所(この奥50米)」 後日紹介(正)師団野戦貨物廠壕「第109師団野戦貨物廠壕(右と同一壕)」 壕写真は後日紹介予定師団の貨物補給に任じ、船舶工兵と協同し、父島からの輸送に奔走した。制海、制空権を失ってからは食料の確保が困難となり、ついに12月から各部隊主食の定量を減量せざるを得ない状態となった。米軍上陸後、3月1日には書類通貨等を消却し、3月5日には地下壕を東地区より移動してきた独立歩兵第314大隊に明け渡し、師団司令部に合流した。以来、師団司令部の直援部隊に編成され、切込隊等に出撃し、3月13日までに殆ど全滅した。 指揮官 中村 初五郎 主計中尉 総員  73名 戦死  56名 生還  17名 出身地 関東、東北.. 遺品回収 入間基地.

(硫46師団総出撃壕歩145兵中隊)何故か、今朝は目覚めが早い。東の空が白々と明けていく様は久しぶりに見た気がする。昨日までの隣家のシルエットと朝日が照らすキラキラ感とは異なり、本当に夜が明けるといった光景である。たまには早起きしてみるのも良いもんだ~! と思うときである。今日の写真は(正)師団総出撃壕歩145兵中隊「第109師団総出撃後歩兵第145連隊工兵中隊(この奥150米)」です。左右にも碑文があります。(左) 混一旅工兵隊壕「混成第1旅団工兵隊壕(この奥30米)」      後日紹介(右)師団防疫給水部壕「第109師団防疫給水部壕(右斜め下150米)」      後日紹介既に合流していた海軍司令部(市川利之助海軍少将)及び師団司令部要員、各隊の残存者等約800名を従えて、22時頃壕を脱出し歩兵第145連隊本部のある混成第一旅団工兵隊壕に向かった。最初に辿り着いたの地下壕は工兵隊壕ではなく、145連隊の負傷者で充満していた天然号と付随して造られていた地下壕で、栗林中将等の同行の将校は地下壕に入った。天然壕内では若い軍医が重傷者を処置しながら「学校では命を助けることは教わったが、命を取ることは勉強しなかった・・・・・・」とつぶやいていたといいます。同行した将兵を収容仕切れずに、一部は元の師団壕や田の部隊の壕に身を寄せて3月18日の日中潜伏を続け、夜、工兵隊壕に移動して、歩兵第145連隊本部と合流した。3月18日以降、栗林師団長は師団司令部、海軍司令部、歩兵第145連隊本部及び145連隊第2大隊(安武末喜大尉)、その他各部隊の残存者等約3000を標流木為八海岸台上の錯雑とした地形に配置し、最後の複郭陣地として持久戦態勢を布いた。この地区は地隙岩間が入り組み、地下壕も適当に散在しいる。また、背面西側の海岸は20~30mの断崖絶壁で直下まで海である。(為八海岸の写真は後日アップ予定)北側は、北の鼻まで岩山や谷が重なりあっている硫黄島唯一の防御最適地で、南面での持久戦には都合が良い地形である。(凄い深い谷間に野砲が落ちていて、車輪は半分壊れていたが砲は上空を向いていた。谷間に入ったら台地に登るまで急斜面を四苦八苦する羽目になった。カメラを持っていなかったので、後日再散策して探したが場所を特定できなかった。)この頃の米軍は、海兵隊と陸軍との交替で兵力が減少しており積極的な戦闘を仕掛けてこない状況にあった。しかし、守備隊は毎夜間挺身斬込隊を出撃させていて、兵力は漸減していた。食料、弾薬は使い果たし、水に至っては夜な夜な右往左往して遠く北の鼻、温泉浜まで出歩く状況であったといいます。米軍の積極的な攻撃がないまでもこのままでは自滅してしまう状況にあり、栗林師団長は、3月25日を期して最後の総出撃を決意するのでした。大須賀少将、市丸少将、高石参謀長、池田連隊長、中根参謀等、戦闘可能な将兵約800名を数隊に分けて、為八海岸より標流木汗顔沿いに大阪山西側から元山飛行場、千鳥飛行場の米軍主陣地に対し出撃した。幸い敵の抵抗も少なく西部落付近まで進出した。この地の米軍莫舎を奇襲攻撃し、手榴弾、白兵戦闘で米兵約170名を殺傷する戦果を上げ、余勢を以て大阪山西側を突破して一挙に元山及び千鳥両飛行場に突入した。当時、千鳥飛行場には相当数の敵機が進駐していた模様だが殆ど玉砕したために戦果はふめいである。この3月26日の総攻撃を以て硫黄島における組織的な戦闘は終わりをつけ、敵上陸以来物量を誇る圧倒的な米軍の海、空、陸からの猛攻に対し、終始敢闘し続けた栗林兵団は玉砕したのである。栗林兵団長は、この総攻撃には高石参謀長、中根参謀と共に常に先頭に立って指揮を執り、大阪山西側の敵陣地突入直前に右大腿部に重傷を負い、司令部付き曹長に背負われて指揮していたが、、既に最後のときが来たことを悟り「兵団長の屍は敵に渡してはならない」と、後の始末を頼んで高石参謀長等と共に自決し、壮絶な最期を遂げた。遺体は司令部付曹長以下が埋葬したということである。また、この出撃に参加して唯一生還された独立混成歩兵第17連隊通信隊の小田静夫曹長の証言に拠れば、市丸海軍少将の指揮する一隊は大阪山より敵の間隙を突破して元山から東海岸まで進撃し、米軍のトラック群を奇襲し、手榴弾等で約30両を破壊したが、敵機関銃の掃射を受けて殆ど戦死したといいます。3月17日兵団出撃の際、偽司令部として壕内に残留した岡少佐以下の守備隊は、壕口の監視が厳しく外界との連絡も取れず立て籠もっていたが、兵団命令により司令部に合流するために、3月24日夜半を期して重傷者を除く約80名で出撃したが米軍の一斉掃射を受けて壕を出ることができなかった。3月25日夜、再度分散して脱出したが、壕口近くで殆ど全滅し、岡少佐も壕脱出直後に戦死した。今別府少尉等30余名の負傷者は4月中旬まで踏みとどまっていたが殆ど自決した。司令部壕に入ると迷路が続き、出入り口が方々にあることがわかります。(現在は、入り口は1カ所です。)司令部壕は掘った壕と天然壕を繋いだものです。機会があれば壕内の説明をしたいと思います。壕内に入るときはいつも「合掌」してからでした。平和の有り難さを思い出させる島。それが硫黄島なのです。..



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