ポストする June 16, 2016


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遺品 処分 三鷹市芸術文化センター

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エコリサイクル東京・立川センターは立川エリアを拠点に不用品回収を行っています。 立川隣接エリアも対応可能となっており、価値のあるものに関しては買い取りも行っています。 女性向けの女性スタッフサービスもあります。

1933年東京都豊島区生まれ。父は無声映画時代のスター俳優、藤間林太郎。京都市立堀川高校卒業。歌手として芸能界入り。62年コメディードラマ「てなもんや三度笠」に白木みのるとのコンビで主人公を出演し、「当たり前田のクラッカー!」のギャグで人気を博す。

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金沢ウラガワ探検隊(金沢市西部環境エネルギーセンター編) 遺品 処分 三鷹市芸術文化センター.

1952年東京都生まれ。テレビタレントセンター東京校出身。73年「キューティーハニー」のナレーターを務める。テレビアニメ「キン肉マン」でロビンマスク役をはじめ、「ゲゲゲの鬼太郎シリーズ」「ドラゴンボール シリーズ 」「北斗の拳」で声優を務めた。

俳優・コメディアンの谷啓(本名:渡部泰雄)、脳挫傷のため東京都内の病院で11日死去、78歳。三鷹市の自宅階段でつまづき顔や頭を強打、病院に運ばれていた。 遺品 処分 三鷹市芸術文化センター.  西洋美術史家で美術評論家の中山公男は、2月21日肺気腫のため死去した。享年81。1927(昭和2)年1月3日、大阪船場の裕福な商家に五人兄弟の三男として生まれる。中学時代より書店や古本屋をめぐり、哲学、美術、文学、歴史書などの収集と読書を日課とする。44年4月、新潟高等学校に入学。47年4月、東京帝国大学文学部哲学科美学美術史学科入学、矢崎美盛に師事。高校時代からの友人丸谷才一のほか、篠田一士、永川玲二など外国文学関係者や画家の松本竣介、麻生三郎らと交友を深める。50年同学科卒業。卒業論文は、フランシス・グリューベルを中心としたフランスの戦後派美術をテーマに選ぶ。53年、同大学大学院特別研究生修了、修士論文では、初期中世の写本芸術をテーマとした。同年、女子美術大学専任講師、54年より多摩美術大学講師、日本大学芸術学部助教授として、西洋美術史、美学概論、芸術論、芸術学、彫刻史、フランス語の講義を行うほか、文化学院でも教鞭を執る。この頃、丸谷才一、篠田一士とともに『ユリイカ』のコラムを毎月号担当、「第一回ルーヴル展」(1954年)のカタログ編集委員会、続いて「朝日秀作美術展」の事務局及び選考委員会に従事、昭和30年代半ばまで携わる。59年5月、国立西洋美術館の開館にともない文部技官主任研究員として勤務、「ミロのビーナス特別公開」「ギュスターヴ・モロー展」「ルオー遺作展」などに関わる。63年から在外研究員として3ヶ月間欧州に滞在。68年万国博覧会参事を務め、同年7月国立西洋美術館を退官。83年多摩美術大学教授、87年~90年筑波大学教授、1991(平成3)年~97年明治学院大学教授を歴任する。また、86年から2005年まで群馬県立近代美術館長を務め、この間、美術館連絡協議会理事長(1995年~2001年)、全国美術館会議会長(1997年~2001年)として、美術館の不備、学芸員の処遇の改善などを訴え、美術館行政の抜本的な改革を目指した。このほか、地中海学会の設立に関わり、副会長を務めた。西洋美術にとどまらず、美術全般に幅広い知識をもち、専門家から一般の美術愛好家に向けて数々の評論、解説、エッセーを残した。変貌をテーマとした画家論『レオナルドの沈黙―美の変貌』(小沢書店、1976年)、昭和20年代から40年間にわたる論考を納めた『美しき禍い』(小沢書店、1988年)、また自伝的エッセーとして『私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった―ある美術史家の自伝的回想』(生活の友社、2004年)などが知られるが、なかでも代表作は、日本人としていかに西洋と向き合うかという問いを発した『西洋の誘惑』(初版、新潮社、1968年・改訂版、印象社、2004年)である。自ら「被誘惑者」として語る西洋と自己、あるいは西洋と日本の対峙というテーマは、中山の思索において根幹をなす。太平洋戦争によって、読書を通じて憧憬した西洋に、理念でとらえているにもかかわらず現実には近づけない状況に直面し、西洋の受容について熟考することとなる。「思考や想像力が、ひとつの理念を生みだそうとするとき、些細な経験は無にひとしい。体験は、理念追求の力を訂正することはあっても、それを凌駕することはできない」。美術史にとって感覚的な体験が絶対であることを認めながらも、理念は体験に勝るという結論に至った中山は、理念に到達するためには、体験の背後にある「思惟体系なり審美体系なりの違い」を把握することが必要であると説く。被誘惑者にとって西洋は幻影であり、両者には容易には到達し得ない膨大な距離がある。西洋と上辺だけの対峙をする「似非モラリスト、疑似エステート」に対し、時に痛烈な批判を浴びせながら、真の西洋受容とは、その幻影を認め、その誘惑を知ることと論じた。1960年代に展開されたこの主張は、半世紀を経た今なお色あせることなく、21世紀の我々に、今度こそ幻影を「奪取」するよう促している。このほか、『モローの竪琴―世紀末の美術』(小沢書店、1980年)、『ユトリロの壁―絵画随想26篇』(実業之日本社、1984年)、『画家たちのプロムナード―近代絵画への誘い』(悠思社、1991年)、翻訳書に、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳『見えるものとの対話1~3』(美術出版社、1962~63年)、アンリ・ドベルビル著、中山公男訳『印象主義の戦い』(毎日新聞社、1970年)、クラルス・ガルヴィッツ著、中山公男訳『桂冠の詩人ピカソ―1945年以降の絵画作品』(集英社、1972年)、フランシス・ポンジュ他著、中山公男訳『ピカソ―破壊と創造の巨人』(美術出版社、1976年)などがある。また新聞、美術雑誌、展覧会カタログ、美術全集等に多数の執筆を残した。詳しくは、『芸術学研究』7号(1997年)に明治学院大学文学部芸術学科編「中山公男教授 著作目録」が掲載されている。蔵書は吉野石膏財団に寄贈され、現在、約3000点あまりが中山文庫として公開されている。

. 現:高崎市)出身。日本大学専門部芸術科(現:日本大学芸術学部)中退。 . 三鷹市 の自宅階段でつまづき顔や頭を強打、病院に運ばれていた。 1932年東京府東調布 .

 武蔵野美術大学名誉教授で、美術史研究、美術評論家であった桑原住雄は、病のため長らく療養中であったが、12月15日、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年、広島県広島市に生まれ、幼少時に家族とともに台湾に渡り、旧制台北高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進む。戦中期に応召したが、戦後に復学し美術史を専攻、さらに同大学大学院を修了。東京新聞社、朝日新聞社に勤務。その間の1963(昭和38)年に、アメリカ国務省の人物交流計画と称されたプログラムにより招聘され、ニューヨークをはじめ、アメリカ各地を訪れた。当時は、抽象表現主義の隆盛から、ポップアートが誕生する時代で、アメリカの現代美術に直にふれ、また、19世紀以来のアメリカ美術の歴史のなかにリアリズムの底流があることに強い関心を抱き、以後、アメリカ美術も研究テーマのひとつとなった。77年4月に筑波大学芸術学系に転じて教授として82年3月まで後進の指導にあたった。ついで82年4月から1995(平成7)年3月まで、武蔵野美術大学教授として務め、退任後同大学名誉教授となった。生前の研究、評論活動は、19世紀から現代までのアメリカ美術の歴史、及び古今の日本美術史に及び、旺盛な評論活動を行った。とりわけアメリカ美術については、1886(明治19)年に来日したアメリカ人画家ジョン・ラファージ(1835―1910)の残した滞日記録『画家東遊録』の翻訳(久富貢との共訳)と、同書に付した論文「ラファージと日本美術」に示されたように、それまで日本において紹介されることのなかったアメリカにおけるジャポニスム研究、及び日米の美術交流史研究が特筆される。また、日本美術については、前田青邨、東山魁夷、髙山辰雄、岩橋英遠、荻須高徳、宮本三郎から現代作家まで、多数にわたる作家論、評論を残した。主要な業績は、下記にあげる単行書、翻訳書にあるとおりであるが、なかでも古希を記念して刊行された『桑原住雄美術論集 日本篇、アメリカ篇』(沖積舎、1995・96年)には、生前の研究、評論の成果が集約されている。 編著書:『東京美術散歩』(角川書店、1964年) 『日本の自画像』(南北社、1966年、改訂版沖積舎、1993年) 『日本画の内景』(三彩社、1974、76年) 中山公男、中森義宗共著『モナ・リザ』(朝日ソノラマ、1974年) 『現代日本の美術5 東山魁夷』(集英社、1974年)『現代日本の美術7 東山魁夷』(集英社、1976年、普及版) 『アメリカ絵画の系譜』(美術出版社、1977年) 『日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1977年) 『カンヴァス日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1979年) 『東山魁夷の世界』(講談社、1981年)『東山魁夷ビブリオテカ』(美術出版社、1982年) 『現代日本画全集 第9巻 岩橋英遠』(集英社、1982年) 『日本の近代絵画 伝統と創造(NHK市民大学)』(日本放送出版協会、1985年)田中穣共編『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン16 東郷青児/宮本三郎』(編著担当「宮本三郎」、集英社、1986年) 『東山魁夷』(講談社、1995年) 『桑原住雄美術論集 日本篇』(沖積舎、1995年) 『桑原住雄美術論集 アメリカ篇』(沖積舎、1996年)『広場の芸術』(日貿出版社、1998年) 桑原住雄詩、香月泰男画『夢マンダラ』(日貿出版社、2002年) 翻訳書: 翻訳バーバラ・ローズ著『二十世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年) 翻訳ハロルド・ローゼンバーグ著『荒野は壷にのみこまれた 大衆状況のなかの美術』(美術出版社、1972年)翻訳(桑原未知世共訳)エイブラハム・A・デイビッドソン著『アメリカ美術の歴史』(PARCO出版、1976年) 翻訳(下山肇共訳)マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』(新潮社、1977年) 翻訳(久富貢共訳)ジョン・ラファージ著『画家東遊録』(中央公論美術出版、1981年)翻訳バーナード・ブリソン・シャーン著『ベンシャーン画集』(リブロポート、1981年) 翻訳監修『ワイエス画集3』(リブロポート、1987年) 翻訳監修『ワイエス画集4』(リブロポート、1988年)翻訳(斎藤泰嘉共訳)ハーリー・F・ゴーグ著『モダン・マスターズ・シリーズ ウィレム・デ・クーニング』(美術出版社、1989年)

 考古学者で奈良文化財研究所(奈文研)名誉研究員・奈良女子大学特任教授であった金子裕之は3月17日、癌のため奈良市内の病院で死去した。享年63。1945(昭和20)年2月16日に富山県高岡市に生まれる。70年國學院大學大学院文学研究科を修了、同年神奈川県高座郡座間町立座間中学校の教員となり、2年間を過ごす。72年4月に奈良国立文化財研究所文部技官として採用され、その後一貫して奈良の地を拠点として考古学研究に従事した。86年以降、奈文研平城宮跡発掘調査部考古第一調査室長をはじめとして飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センターで室長を歴任し、1999(平成11)年から2005年まで奈良女子大学大学院人間文化研究科教授を併任した。1999年に奈文研埋蔵文化財センター研究指導部長、2001年に独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、03年に飛鳥藤原宮跡発掘調査部長となり、05年4月退職。以後奈良女子大学特任教授として教育・研究に貢献した。金子の研究の対象には、学生時代からの関心でありつづけた縄文文化、奈良に赴任してからのフィールドとなった飛鳥や平城京の調査研究を契機とした我が国古代の都城制、それに出身大学の学的伝統でもある神祇への関心に発する古代祭祀という三つの大きな柱があった。金子はそのいずれについても、日常業務の多忙さの中にありながらも、重厚な成果を積み重ねていった。個別の論文は枚挙にいとまがないので、著書のいくつかに限って言及しておこう。『日本の美術 まじないの世界Ⅰ』(至文堂、1996年)は金子の畢生の研究テーマであった祭祀についての総説ともいうべき好著で、縄文時代から古代にわたる壮大な歴史の流れの中に脈々と生き続ける「まじない」、「まつり」のありようを、考古資料を駆使して生き生きと叙述した。同年に刊行された金子著の『歴史発掘12 木簡は語る』(講談社)でも浩瀚な知識に裏付けられつつ、自身の独自の研究成果を基軸にして、わかりやすい表現で古代人の精神生活のありようが解き明かされている。こうした闊達な文章表現は金子の真骨頂とするところで、本来堅苦しくなりがちな学術成果を、解きほぐすような筆致で語りかける文章術は類まれなものであった。金子の、はからざる晩年の関心は庭園遺跡の史的位置づけに重点がおかれたように思える。平城宮の内外での発掘調査でみつかった幾多の庭園跡をどのように位置づけるべきか。金子は、庭園は皇権さらには都城に関わる祭祀と結合すると考え、関連する国内外の研究者を糾合して庭園の史的論理の追究に努力を傾注した。その成果の一端は2002年に刊行した編著『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬―』(角川選書)に結実しているが、まだ道半ばというところであった。金子の研究姿勢は、総じて峻烈であった。徹底的に事実に拘泥し、妥協を許さず、一言一句をゆるがせにしなかった。時として挑戦的で、しかし、いくつもの研究会を組織したことや多くの編著書が物語るように、調和、調整そして総合を重んじる人でもあった。発掘や整理作業に従事する人々に寄せる優しい気配りは、その峻厳な風貌からは窺いがたいものの、近くに過ごす者達の等しく知るところであった。 遺品 処分 三鷹市芸術文化センター. 文化振興施策の制定:徳島市芸術文化施設建設基金条例、新潟県文化振興計画、富山県民文化プラン、北海道文化振興条例、様似町文化振興条例(北海道)

 画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

遺品 処分 三鷹市芸術文化センター 文化振興財団の設立:鎌倉市芸術文化振興財団(神奈川)、いばらき文化振興財団、藤沢市芸術文化振興財団(神奈川)、鳥取県文化振興財団、田村町文化振興財団(福島)、倉敷市文化振興財団(岡山)

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 美術史家、美術評論家の細野正信は3月11日午前8時58分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。享年81。1926(大正15)年9月11日、群馬県前橋市に生まれる。1947(昭和22)年群馬師範学校を卒業後、前橋市立第一中学校教諭を務め、翌年早稲田大学高等師範部へ入学。49年に同大学第一文学部に編入学、57年に同大学院文学研究科美術史学専攻修士課程を修了し文部省へ入省、翌年には同芸術課の日本芸術院事務局に勤務する。63年東京国立博物館へ出向。72年に同館美術課絵画室主任研究官、85年に同課建築室長となる。87年同館を定年退官し、山種美術館学芸部長となる。1997(平成9)年には高崎タワー美術館館長。2000年に同館館長を辞し、03年までヤマタネ美術顧問を務める。また1963年から71年まで女子美術大学、71年から88年まで早稲田大学で講師を務めた。2000年には船橋市教育文化功労者として表彰された。1960年代前半より『美術手帖』『萠春』誌上に展評や美術評論を執筆し、東京国立博物館在任中は、青木木米・中山高陽等の近世文人画家や司馬江漢についての論考を『MUSEUM』をはじめとする諸雑誌に発表。70年代には美術全集の刊行が相次ぐ中で、とくに狩野芳崖や横山大観といった近代日本画に関する巻の執筆・編集を担当し、美術雑誌や展覧会図録でも旺盛な執筆活動を展開、また日本美術院を主とする同時代の日本画家についての評論も行う。75年からは『日展史』全41巻、89年からは『日本美術院百年史』全15巻編纂の監修を務め、日本近代美術史に大きく与る団体の基礎資料集成を築いた功績は大きい。その著述においても近代日本画の通史のスタンダードをつくりあげ、専門家はもとより多くの美術愛好家の手引となった。主要な編著書は下記の通りである。 編集『日本の美術36 洋風版画』(至文堂、1969年) 『現代日本美術全集2 横山大観』(集英社、1971年) 『カラーブックス 竹久夢二』(保育社、1972年) 編集『近代の美術9 下村観山』(至文堂、1972年)編集『近代の美術17 フェノロサと芳崖』(至文堂、1973年) 『カラーブックス 日本の画家 近代日本画』(保育社、1973年) 編著『日本の名画17 菱田春草』(講談社、1973年) 『読売選書 司馬江漢 江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売新聞社、1974年)監修『日展史』全41巻(社団法人日展、1975~2002年) 編集『日本の名画1 狩野芳崖』(中央公論社、1976年) 『現代日本美人画全集5 伊東深水』(集英社、1977年) 富岡益太郎・吉沢忠と編著『日本の名画8 富岡鉄斎・横山大観・菱田春草』(講談社、1977年)『皇居造営下絵 杉戸絵と襖下絵』(京都書院、1977年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術52 江戸狩野と芳崖』(小学館、1978年) 『現代日本の美術4 東京画壇』(小学館、1978年) 編集『日本美術全集25 近代絵画の黎明:文晁・崋山と洋風画』(学習研究社、1979年)監修『日本の花鳥画』全6巻(京都書院、1980~81年) 『明治花鳥画下絵集成 宮内庁内匠寮旧蔵』(京都書院、1981年) 『短冊絵300撰 内田コレクション』(芸艸堂、1981年) 浜田台児と監修『伊東深水全集』全6巻(集英社、1981~82年)『現代日本絵巻全集16~18 東海道五十三次合作絵巻』(小学館、1982~83年) 『現代日本画全集1 堅山南風』(集英社、1983年) 編集『日本の美術232 江漢と田善』(至文堂、1985年) 『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、1987年)NHK取材班と共著『流転・横山大観「海山十題」』(日本放送出版協会、1987年) 『日本の美術262 江戸の狩野派』(至文堂、1988年) 監修『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1988年) 『日本美術院百年史』全15巻(財団法人日本美術院、1989~99年)監修『近代の日本画 花鳥風月:目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1990年) 責任編集『昭和の文化遺産1 日本画1』(ぎょうせい、1990年) 編集『巨匠の日本画2 横山大観 遥かなる霊峰』(学習研究社、1993年) 『日本画入門 よくわかる見方・楽しみ方』(ぎょうせい、1994年)『日本絵画の表情1 雪舟から幕末まで』(山種総合研究所、1996年) 編著『名画の秘密 日本画を楽しむ』(ぎょうせい、1998年) 監修『日本絵画の楽しみ方完全ガイド 絵画を楽しむための「20のポイント」と日本の巨匠72人の名作』(池田書店、2007年)